弁護士における理屈と人情
第231号 弁護士における理屈と人情
法律を勉強した人なら、今回は我妻栄先生だなと思ったはずです。50年ほど前に亡くなった、日本の民法界を代表する大学者です。この大先生が、一般人向けに書いたのが「法律における理屈と人情」です。「法律家は、とかく、理屈っぽいとか、融通がきかないとか、杓子定規だとかいわれます。そのとおりだと思います。」なんて、砕けた文章で始まります。我妻大先生は、「法律家は人情を理解しない」「法律の筋さえ通ればよいと思っている」と批判されていると指摘します。その例として、建築物の高さ制限の規定を上げます。ある人が建物を建てようとしたら、法の規定より少しだけ高いから認められなかったというんですね。その人は、「その位は融通をきかせるべきじゃないか。法律は全く杓子定規だ。」と怒っているんです。これに対して我妻先生からは、凄い「決め台詞」が出てきます。「杓子定規は法律の生命」というものです! 学生の頃この言葉を知り、本当に感動しました。建物の高さ規制の場合、杓子定規を止めるには、担当の役人に裁量権を認めるしかありません。しかし、役人が裁量権を持てば、そこに付け入ろうと、それこそ賄賂等の働きかけがなされます。杓子定規というのは、どんな人でもその条件さえ満たせば認められるものなのだから、一般の人、力の弱い人を守ってくれる、そこに「法律の生命」があるということでした。最近でも、医科大学での不正入試の事件がありましたよね。有力官僚の子息は、「杓子定規」なテスト結果と無関係に、「人情」的な配慮で入学できました。一方、女性受験生の場合は、テストの点という杓子定規の基準では合格できた人も、不合格になっています。大学当局が、「人情」のある合格判断をしたので、弱い立場の女性がはじかれたのです。こう考えますと、「杓子定規」はまさに法律の生命だと思えてきます。我妻先生は、「杓子定規」が大切な事例として、検察官が刑事事件を起訴するかどうか判断する場合を挙げています。これって確かに、私が沢山の刑事事件を扱う中で、強く感じることです。痴漢や盗撮などの比較的軽い犯罪の場合、現場の検察官に相当広い裁量が認められています。つまり、同じような罪を犯しても、起訴されるかどうかは、検察官次第ということになるのです。これは、やはりおかしい気がします。(もっとも、緩い検察官にあたると、素直に喜んじゃいますど。。。) というわけで、我妻大先生は、理屈と杓子定規の大切さを説明するんですが、その一方、法律家も「人情」を忘れてはいけないとアドバイスされます。杓子定規な解決では、どうしても個々の事案では、常識と人情に反する、おかしな結論になる場合もあります。だからといって、「常識をただ常識として、人情をただ人情として通す。それでは法律論ではない。」と、我妻先生は手厳しい。「常識と人情が法律論の一般確実性を崩さずに通るようにすること、それが法律家の任務であります。」と締め括っています。法律の生命は杓子定規だが、人情を入れて「杓子定規」の内容を改善していくのが法律家の使命だということでしょう。こういう文章を読むと、法律家の端くれとして、本当に恥ずかしくなります。弁護士の場合、自分の依頼者のために全力で当たります。「杓子定規」な解決よりも、依頼者を少しでも有利にするように頑張ることになるわけです。しかし、それが単なる「特別扱いの要求」に過ぎないなら、法律家失格でしょう。自分を信頼して依頼してきたお客様と共に、「法は人情と常識を無視している」と怒り、本気で解決策を考える。しかしその一方、法律家としての「杓子定規」の大切さを忘れない。そんな弁護士になりたいものです。
弁護士より一言
「お腹が痛い。」と言っていた中学1年生の息子が、トイレから出てきたんです。本当に軽い気持ちで、「ウンチでた?」なんて聞いたら、「そういう下品な下ネタは本当にやめて!」と言われちゃいました。ついこの前まで、私が「運賃」と言うだけで喜んでいたのに。 「パパ、僕はもう中学生だよ。いつまでもそんなことで喜ぶわけないじゃないか。」だそうです。り、理屈はそうでも、人情が。ううう。。。
(2018年10月16日 大山滋郎)