弁護士のサド侯爵夫人
第390号 弁護士のサド侯爵夫人
サド侯爵と言えば、「サディズム」の語源となった、悪名高き人です。
フランス革命の前後に活躍して、「悪徳の栄え」や「美徳の不幸」といつた本を書いています。姉妹のうち、貞淑な姉の方はどんどん不幸になっていくのに対して、性的に自由奔放な妹は幸福になっていくという話です。当時の人たちの道徳観に真正面から逆らった本です。サドの「悪徳の栄え」は、70年くらい前にはわいせつ図書として、翻訳者と出版社が起訴されたということで有名になっています。最高裁まで争われたうえで、最終的に有罪判決が確定しています。今の時代から考えると、隔世の感がある一方、今でも有名判決ですから、法律を学ぶ人は必ず勉強しています。ちなみに、サドはこういう本を書くだけでなくて、実践でも当時では許されないことをしています。
例えば同性愛なんてことで、牢屋にも入れられているんです。同性婚を認めないのは憲法違反だと多くの人に言われている現代では、ありえない話です。そんなサド侯爵の妻を主人公にしたのが、三島由紀夫の「サド公爵夫人」です。サド侯爵自体は、舞台に登場しません。舞台に出てくるのは全員女性だけです。登場しないサド侯爵をめぐって、女性たちが議論し、ぶつかり合う劇です。舞台は、サド侯爵が性的問題で逮捕されたというところから始まります。貴族の結婚は政略結婚ですから、問題を起こした相手とは早く別れて「損切り」するのが常識です。しかし、サド侯爵夫人は家族から「サド侯爵と別れろ」と迫られても屈しません。清廉で正しげな言葉を並べ立てて反論します。「夫に忠実であることは、私自身の尊厳なのです」「神と結ばれた結婚を、私の意志で破ることはできません」なんて立派な言葉を並べて、離婚を拒否します。そして、夫の脱獄を手伝ったり、牢屋に居る夫を見捨てずに差し入れを続けたりします。まさに、サドの「美徳の不幸」の主人公みたいな人です。
一方、夫人の妹の方は、「悪徳の栄え」の主人公みたいです。姉の夫であるサドとも関係を持つだけでなく、自由奔放に生きています。それでいて最後には大金持の夫と結婚して、フランス革命を逃れて無事亡命していきます。今の日本でも、こういう人かなりいそうな気がします。さらに姉妹の母親も面白い。この人は物事を全て「損得」だけで判断します。サド侯爵が逮捕されても、罪を免れる可能性があるならそれに賭けます。でも、サドの有罪が動かなくなると、娘に離婚を迫る。さらに最後に、フランス革命の中で、牢屋に居たサドがなぜか英雄扱いされてくると、今度はそれを利用するために、これからもサドと一緒にいるように娘に言います。こういった「損得」だけで判断する人って、人間的にはあまり尊敬できない気もします。
その一方、弁護士の顧客として考えたら、かなり良いお客様です。何が得かという共通の物差しで話ができますので、非常に話がしやすいところがあるのです。これに対して、サド侯爵夫人のような人が顧客だと、その対応はなかなか難しい。夫人は、最後の場面でサド侯爵を見捨てます。かつて美青年だった侯爵が、フランス革命で牢屋から出て、夫人の家を訪ねてきます。そのときの侯爵は、牢屋の中の不摂生で、太って歯と髪の毛も抜けて、かつての面影はありません。そんな夫の現状を聞いた夫人は、夫と会うこともなく修道院に入ります。こうなってくると、侯爵夫人は口ではいろいろと立派なことを言っていたけれど、「夫がイケメンだから執着していただけじゃないか!」と思ってしまいます。
弁護士をしていると、こういうことよくあるんです。「お金の問題じゃないんです!」と言いながら、最後はお金の多い少ないで決断する依頼者や相手方も相当数います。「だから最初に言ったのに…」と思うことも結構あるのです。顧客満足の観点から考えるなら、きれいな言葉で話す建前の裏にある、顧客の本当の要求を見つけることも大切だと思ったのでした。
弁護士より一言
他人のことは言えません。私も正しい建前を並べることがよくあります。相場で和解がまとまりそうなときに、「もう少し有利にできないか、相手と交渉して欲しい」と言われると、「そんなに欲をかくのは依頼者のためにならない」と言って断ることもあります。それ自体嘘ではないのですが、「そういう要求をする自分が恥ずかしいから」ではないかと反省もするのです。 (2025年6月1日 文責:大山 滋郎)