弁護士の3(1/3)
第327号 弁護士の3(1/3)
一般的に、1より2が、2より3が安定するそうです。キリスト教の「三位一体」なんて、学生の頃不思議に思ったものです。「神」「キリスト」は良いとして、何だっていきなり「精霊」が出て来るのか訳が分かりません。「3」が安定するから、無理やり付加えたような気がします。(もっとも、弁護士稼業をしていると、結婚生活に3人目が加わることで、多くの紛争が生じるのも見てきましたが。。。)毛利元就の「三本の矢」の話なんか有名です。元就が3人の息子に、「力を合わせろ!」と忠告した話です。一本の矢なら簡単に折れるが、3本の矢なら折ることができないんだそうです。私も子供が3人いますので、「みんな仲良く協力しなさい」と、伝えたい気持ちはあります。
でも、そもそも「矢」って、飛ばして刺すためのものですよね。それを、「折れるかどうか」で考えるのは無茶な気もします。毛利元就のエピソードは、中国の古典を踏まえているそうですが、そこでは、十数人兄弟だったそうです。「そんなに沢山の矢を、折れる訳ないじゃん!」と、思わず突っ込みを入れたくなります。矢の話では「3」より数が多かったみたいですが、そもそも中国古典にも、「3」はよく出てきます。「三国志」なんて、私も大好きですし、ファンも多いですね。ただ、冷静に考えると。魏が中国を統一する過程で、司馬氏の晋に国を奪われたという話だと思うんです。「天下三分の計」とか、凄く盛り上げてますけど、客観的に見れば孔明先生に勝ち目なんか初めから無いように思えます。それでも、三つ巴の争いみたいなものは、非常に盛り上がります。弁護士の訴訟関係でも、原告被告に加えて、第3者が訴訟に加わることがあります。「訴訟参加」とか「独立当事者参加」という制度です。誰が敵で、誰が味方かと、訴訟の面白さが増すことは確かなのです!
三国志の話に戻りますと、ここには多くの名言があります。「3」に関連するものとしては、呉の呂蒙という、武将の言葉です。「男子たるもの、3日会わなければ、目を見開いて観察しろ!」という名セリフです。原文ですとこんな感じです。「男子、三日会わざれば、刮目(かつもく)して見よ」 私もこれで、「刮目」という言葉を覚えました。勉強嫌いだった呂蒙が、主君に諭されて、多くのことを学びます。以前の呂蒙しか知らなかった人に、その見識を感心されたときに、呂蒙が言った言葉です。以前が全く勉強してなかったんですから、「もう少し謙虚な言葉の方が良いのでは?」と、私なんか思ってしまいます。でも、後世にこれだけ有名な言葉として伝わっているのは、「三日会わざれば」の効力かもしれません。私のこれまでの経験でも、短期間に凄く力を付ける人っているんです。男女差別みたいなことを言うと、怒られそうですが、こういう人は男性がほとんどなんですね。男性の場合は、「こんないい加減な人間、さすがにどうにもならないのでは?」と思うような人が、暫く見ないうちに「凄い人」になっていることがあります。(もちろん、そうならないケースの方がずっと多いですけど。。。)
中国の「3」に話を戻します。「3」というのは、「沢山」を表す象徴的な意味があると思うんです。杜甫の「国破れて山河あり」の詩でも、長く続いている戦争は「峰火 三月に連なり」と表現されているんですね。「3」に対するこだわりがありそうです。陶淵明の有名な「田園の居に帰る」も、「3」が出てきます。中国でも日本でも、勤め人生活を辞めて、田舎に帰るときには、この詩を口ずさんだということです。「宮仕えなんて、やっていられるか。故郷に戻って、農業で暮らすぞ!」という詩ですね。「帰りなんいざ、田園まさに荒れんとす」「間違えてゴミのような俗世間に落ち、30年も経った」と続きます。
私も、以前勤めていた法律事務所を辞めるとき、中国人の友人に、この詩を送って報告しました。うちの勤務弁護士に、こんなこと言われないように気を付けます。
弁護士より一言
中国の詩に、「白髪三千丈 憂いによりて かくのごとく長し」なんてあります。長いことを表すときには、やはり「3」を使うんですね。私の場合、完全な白髪になりましたが、三分刈りに切ってもらっています。先日電車で、席を譲られました。「年寄り認定」されたみたいで不満でもありますが、「白髪三分刈り」のお陰かと、有難く譲ってもらったのでした。。。 (2022年10月17日 大山滋郎)