弁護士のペンとカネ
第359号 弁護士のペンとカネ
前回は、「ペンは剣より強し」という言葉について考察しました。近代国家では、剣が得意な人より、国家権力を「ペン」で動かせる人の方が強いという話です。まさに、近代国家を象徴する標語が「ペンは剣より強し」なんです。
一方近代国家において、市民間の問題は「カネ」で解決されます。これが資本主義社会です。そんな資本主義社会を現す標語は、「カネは剣より強し」ということになるはずです。原始時代や封建時代には、力(剣)の強い人間が強かったのが、現代ではお金持の方が強いということは、皆が知っていることでしょう。ちなみにこれって、人間の一生についても当てはまるそうです。子供の頃は、力が強くて運動ができる子がもてるけれど、大人になると収入の高い人がもてだすんですね。事程左様に、現代社会において「カネ」の力は凄いのです。
しかし、ペンを使いこなす人が強い力を持つことに関しては、多くの人が良いものだと褒めています。それなのに、カネで力を持った人の方は、悪の象徴みたいに非難されることが多いです。確かにお金は、必ずしも公平にいきわたりません。現代社会では、少数の大金持ちと、多数の貧困者が生まれています。そういう社会はおかしいだろうと思う人が出てくるのももっともなことに思えます。極端な貧富の差を無くそうと考えるのも当然です。
そう言えば、「メジャーリーグの大谷選手の年収は1億円に抑えるべきだ」と主張した大学教授がいました。その分、社会に役立つ仕事の給料を上げられます。この人は、マルクス経済の学者だそうですが、国家が経済を統制して、野球選手を始め個人の年収まで国が決める社会を望んでいるのでしょう。
これまで、「共産主義」を名乗る国家がいくつも生まれてきました。そこでは「剣」(暴力)だけでなく「カネ」(経済)も全て、国家権力が統制します。そういう社会で起こったのは、独裁下の官僚制です。そこでは、カネを稼ぐ能力ではなく、官僚として出世する能力(ペン)が重要となりました。そんな共産主義社会での標語は、「ペンはカネより強し」になるんだそうです。もしもそんな社会になったとしたら、「ペン」に秀でた教授先生が、大谷選手より強い立場になったうえに、標語まで作っちゃいそうです。「ペンはバットより強し!」 しかし私には、それが望ましい社会とも思えないのです。というわけで、「ペン」によって生活している弁護士にとっての、「剣とペンとカネ」について考察しちゃいます。まず、「剣」との対応ですと、暴力団や闇金とやりあう場合ですが、大して怖く思ったことはありません。いざとなれば、警察に保護して貰えます。まさに「ペンは剣より強し」なんです。もっとも、カルト教団に殺された弁護士や、離婚裁判で、依頼女性の夫に刺殺された弁護士もいますから、弁護士稼業を続けていくには、「剣」に対する十分な注意も必要です。弁護士業務と「カネ」との関係で言いますと、バブルのころには、「カネ」で身を持ち崩した弁護士が沢山いたようです。コツコツと「ペン」を使って仕事をするより、当時は不動産を転がした方が簡単に儲かりました。そういう中で、道を踏み外してしまったのでしょう。
刑事弁護の仕事をしているときにも「ペンとカネ」の問題は起きます。弁護活動において、「ペン」が重要なのは言うまでもありません。特に無罪を争っているような事件ですと、まさに弁護人の「ペン」の力で結果が左右されることもあります。
しかし、ほとんどの事件では、被告人が罪を認めていることを前提に、少しでも軽い処分を得ることが重要です。そのときにものをいうのは「カネ」です。ほとんどの犯罪では被害者がいます。その被害者に、うまく「カネ」を受け取ってもらうのが、多くの場合一番の弁護活動となります。
これができないと、どれほど頑張って「ペン」を振るっても、あまり役に立たない。ここではまさに、「カネはペンより強し」が当てはまるのです。。。
弁護士より一言
慶応義塾大学の校章は、ペンが2本交差しています。これは、「ペンは剣より強し」を象徴しているそうです。学問を修める大学には、こういう校章が望ましいのでしょう。しかし1万円札になった福沢諭吉は、お金儲けも大変上手かったし、剣道でも居合の達人と言われていたそうです。世の中には剣もカネもペンも得意な人がいて、不公平だなと感じてしまうのです。 (2024年2月19日 大山 滋郎)