6人の怒れる裁判員(2)
6人の怒れる裁判員(2)
「普通の人達である裁判員に、ちゃんとした裁判なんかできるはずがない。」なんて言う弁護士は沢山います。正直私も、疑問に思っていました。
アメリカのミュージカルに「オクラホマ」ってありますよね。軽快な音楽は、みんな知っているはずです。両想いの恋人がいる女性に横恋慕し、ストーカーとなった男の話です。その男ともみ合う中で、恋人は男を殺してしまいます。しかし、その場で「陪審裁判」が行われ、満場一致で恋人は無罪となり、そのまま新婚旅行にでかけるという、凄い話です!さすがにこれを見て私も、「こんなに簡単に陪審裁判で無罪にしちゃって良いんかいな?」と心配になった一方、一般市民の意思が、ストレートに反映される制度というのは、魅力的にも思えました。
民衆による裁判ということで、一番有名なのは、「ソクラテスの弁明」ですね。戦争に負けて、人心が荒んでいるアテネが舞台です。若者を堕落させたという罪で、ソクラテスが裁判にかけられます。500人の一般市民によって裁かれるわけです。その裁判でのソクラテスの弁明を、弟子のプラトンが感動的に記録しています。ソクラテスの時代にも、弁護を担当するプロがいて、そういう人達は、市民の同情をひくようにしなさいなんて、ソクラテスに助言をします。これって、現代の弁護士も、というより、私自身よくやります。裁判になると、とりあえず被告人に「最近結婚したとか、子供が生まれたとか、祖父母が病気で先がないとか、そんな事情があったら教えてください!」なんてお願いするのです。(おいおい。。。)しかしソクラテス大先生は、こんなお涙頂戴式の弁護を潔しとせず、弁護のプロに依頼することなく、真正面から自分についての弁明を行います。「弁明」の中でソクラテスは、アテネを「惰眠を貪る馬」に、自分自身を「アブ」にたとえます。自分はうるさいかもしれないが、馬を起こすアブのようなものだというわけです。アブを受け入れて目を覚ますよりも、アブを殺してしまうことを選んではいけないということですね。こんなこと言われたら、アテネの市民は面白くないでしょう。(わ、私も「今の弁護士会は既得権益を守るだけの、惰眠をむさぼる馬だ。」なんて批判していますから、十分気を付けないと。。。)
もっとも、ソクラテス大先生の場合、最初から有罪を目指して「弁明」していたようにも思えちゃいます。少なくとも私には、アテネの「裁判員」たちが、それほどひどい判断をしたとは、思えないのです。
日本でも、裁判員の制度をぼろくそに言う人がかなりいるようです。裁判員になると、昼間に何日も時間を拘束されるので、「そんなの引き受けるのは、仕事もしていないような人たちだけだ。」みたいに言う人もいました。こういうこと言うの、弁護士に多いのです。しかし、私は10件近く裁判員裁判をやりましたが、基本的には皆さん常識的な社会人だなというのが実感です。皆さん真剣に、事件に向き合っているなと感じました。確かに、前回も書きましたが、裁判員制度が始まって、特に性犯罪など、刑がとても重くなりました。自分の依頼者が、裁判員によって、それまでよりもはるかに重く処分されるのは、非常につらいものがあります。それでも、一般の人達の「常識」が、裁判に入ってきている事実は、重く受け止めたいと思うのです。私は、刑事裁判に限らず、日本の司法には、裁判官、検察官、弁護士といった「プロ」の間だけで通用する「常識」が沢山あると思っています。それらについて、一般市民はほとんど何も知らされていません。刑事裁判以外にも多数ある、それら「常識」は、一般市民にとって、本当に「常識」といえるのか?
ということで、もう1回続きます。
弁護士より一言
富士山に登るということを、皆に宣伝してきました。子供たちにも、富士登山の危険など、さんざん話したところ、とても心配されました。「ぱぱ、やばくない?生きて帰れるの?」あまり心配させるといけないので、「大丈夫。5合目まではバスで行くから。」と正直に伝えたところ、「なんだ、パパもゆとりだね!」 こ、こいつらぁ。でも、子供たちでお金を出し合って、酸素ボンベを買ってくれたのでした。 (2016年7月16日発行 第177号)